玉虫佐大夫誼茂(当時37歳)- プロファイル
- 生年:文政6年(1823年)
- 没年:明治2年4月9日(1869年)
玉虫左太夫は、文政6年(1823年)、仙台藩士の玉虫平蔵信茂の二女七男の末子として生まれた。名は誼茂(やすしげ)、字は子発、通称左太夫、拙斎また東海と号す。
仙台藩校養賢堂に入り斎藤真典につく。
弘化3年(1846年)感ずるところあって脱藩して江戸に出奔。林復斎に入門、のち塾長となる。
安政元年(1854年)のペリー再来航の際、林復斎は全権に任命されその応接に当たったが、佐太夫もその補佐役をしていた。
その後箱館奉行堀織部正利煕に仕え、安政4年(1857年)、堀に随行して蝦夷地に赴き各地を視察し、詳細な記録『入北記』9巻を作成。その観察力と克明な記録は抜群である。
万延元年(1860年)の遣米使節派遣に正使新見豊前守正興の従者として加わり、アメリカの文物制 度を視察し克明な記録『航米日録』8巻を著した。
帰国後帰藩を許され、のち養賢堂学頭副役となる。文久から元治(1861~65年)にかけ江戸にあり種々の情報を収集し、『官武通記』『波山記事』『夷匪入港録』など今日幕末維新史上の重要史料となるものを作成。
戊辰期には奥羽越列藩同盟成立に活躍したが、仙台藩の降服により榎本武揚の艦隊に投じ蝦夷行を企てるも捕らわれ仙台に投獄され、切腹家禄没収となった。墓は仙台三百人丁保春院。
参考文献:山本晃『玉虫左太夫略伝・附航米日録』