広瀬格蔵包章(当時50歳)- プロファイル


広瀬保庵の肖像写真

兵庫県篠山市の出身。丹波篠山藩士から、代々甲斐市川の医師である広瀬家に養子入りし、広瀬保庵と号し、市川代官所の典医を務めていた。 

万延元年遣米使節団には、当時50歳の広瀬包章が勘定組頭森田岡太郎清行の従者として参加した。森田清行が市川代官を務めた時の縁で従者となったと思われる。帰国後の文久2年に子息2人と共に「環海航路日記」と「環海航路新図」を出版して、慶応元年58歳で逝去された。

直系の子孫は未確認であり、山梨県市川三郷町にあったと推測される墓所の所在は不明。