村垣範正淡路守(当時48歳)- プロファイル

範正の布衣姿
範正の布衣姿
範正出陣姿の掛け軸(函館博物館所蔵)
範正出陣姿の掛け軸(函館博物館所蔵)
明治期の範正
明治期の範正

幕末の旗本であり、幕僚として箱館奉行、神奈川奉行を務め幕末の外交官として活躍する。 文化10年(1813年)江戸築地で旗本・村垣範行の次男として生まれる。村垣家は代々庭番役を勤め、祖父・定行は松前奉行を務めた。 初名は与三郎、号は淡叟。

経歴

天保2年(1831年)新規に召し出され、小十人格庭番となる。
安政元年(1854年)勘定吟味役になる。海防掛・蝦夷地掛として、3月より蝦夷地・樺太巡視を行い、日露国境を確認。10月に江戸に帰る。ロシアのプチャーチン艦隊の再来日に際して、筒井政憲・川路聖謨らとともに露使応接掛として伊豆下田に赴任する。
安政3年(1856年)7月、箱館奉行に仰付かる。9月、従五位下・淡路守に叙される。堀利煕とともに蝦夷地の調査・移民奨励・開拓事業に貢献する。
安政5年(1858年) 安政の大獄で免職となった岩瀬忠震に代わって外国奉行に任命され、さらに翌年の安政6年(1859年)には、神奈川奉行を兼務するなど能吏ぶりを発揮した。
万延元年(1860年) 日米修好通商条約批准書交換のため、幕府がアメリカへ派遣する正使新見正興を正使とする遣米使節団の副使を拝し、3月29日、米国軍艦ポーハタン号で神奈川よりワシントンD.C.に向かう。4月3日に批准書を交換。アメリカ合衆国大統領ジェームズ・ブキャナンと会見した後、帰路はナイアガラ号にて大西洋航路をとり、9月27日に江戸に戻る。航海日誌、「村垣淡路守公務日記」、「遣米使節日記」は貴重な日米外交の公式記録として世に残す。
文久元年(1861年) ロシア艦ポサドニック号が対馬芋崎浦を占拠したロシア軍艦対馬占領事件に際しては、箱館においてロシア領事ゴシケヴィチと交渉し、退去を求めた。その後、箱館港の砲台建設を促進した。
文久3年(1863年) 6月、作事奉行に転じる。
元治元年(1864年) 西の丸留守居、若年寄支配寄合となり、一線から退く。
明治元年(1868年) 12月に病気による隠居願いが受理される。その後、淡叟と号し、明治維新政府の一切の官職に就かず。
明治13年(1880年) 3月15日に没する。享年68歳。墓は東京都台東区谷中の天王寺墓地に建立された。

村垣範正淡路守(当時48歳)- 子孫の紹介

下記の子孫は、村垣範正の他の子孫との連絡可能な関係者です。

  • 万延元年遣米使節子孫の会幹事/村垣範正玄孫
    宮原 万里子(村垣正澄長女)

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村垣範正淡路守(当時48歳)- 永代墓地

天王寺本堂
天王寺本堂
村垣範正と直系子孫の墓
村垣範正と直系子孫の墓
天王寺周辺マップ
村垣範正と妻柳子の墓石
村垣範正と妻柳子の墓石