松山吉次郎好徳(当時59歳)- プロファイル
上総市原郡馬立村沢辺の出身。松山吉次郎好徳は、牧野源兵衛宣秋の三男として、1802年に同地(現千葉県市原市馬立)で生まれた。松山家の養子となり、江戸で道場を開いた武芸者。
万延元年遣米使節団には、当時59歳の松山好徳が、副使村垣淡路守の従者(護衛武官の役であったと思われる)として参加した。渡米した際には「亜墨利加合州国航海記」を矢立で書き残している。この直筆航海記(古文書)を加藤実之吉氏が解読され、昭和43年1月1日に、南総郷土文化研究会長の藤原文夫氏により発行されている。
帰国後は、江戸から生まれ故郷の生家に隠居し、幕末から明治維新の目まぐるしい世相を静観し、明治2年8月1日、米国より帰国後9年、68歳で逝去した。墓所は、千葉県市原市馬立1124龍源寺にある。
松山好徳のご子孫の永野務氏からご提供して頂いた資料に基づき編集:長野和郎