野々村市之進忠実(当時43歳)- プロファイル
野々村忠實は副使村垣淡路守範正の従者として米国に航し、「航海日録」を纏めている。忠實は野々村治平の男として、文政元年(1818年)に生まれ、通称を市之助と言った。野々村家は美濃国の出身で、豊大閣の家臣野々村美濃守の末裔と称され、代々徳川家には仕えぬことを家憲とし、とくに主取はしなかったようである。従って父の治平も長崎奉行所、或いは大坂奉行所に勤めたが、正規の奉行所の役人としてではなかったらしく、また人に薦められても、ついに与力株は買わなかったという。治平はなかなか筆まめの人物であったようである。奉行所勤仕当時にものしたと思われる、大塩平八郎の乱に関する筆録や、また「随筆」と称する数冊の筆録がある。この書には奉行所の判決文をはじめ、ペリ-やハリスの来航に関する聞書の類などが収められている。治平は安政5年(1858年)2月26日卒した。忠實が副使村垣淡路守範正の従者として米国に渡航した時、彼は43歳の壮齢であった。
忠實が副使の従者に選抜された前後の経緯や、帰朝後の動静などは、一切不明であるが、その選抜には、父治平が奉行所に勤仕したという由縁も、その一つの理由に掲げられる。忠實も筆まめな父の資質を受けて「航海日録」をものにしたほか、また多少絵心もあったらしく、迎艦ポーハタン号及び護衛艦ナイアガラ号が寄港した各港の風景を描いた絵巻物一巻を残している。その後、明治維新当時、忠實は内藤家(信濃岩村田藩主内藤正誠)に仕え、戊辰の動乱には、親族は難を信州小諸に避けたが、忠實は江戸に踏み留まったという。維新の変革で忠實も自活の途を講ずる必要に迫られ、刀剣類一切を売り払い、これを資金として、洋行した経験を生かして、本郷で洋品店を開業、のち呉服屋に転業し、終生これを家業とした。明治17年(1884年)7月31日、この世を去った。時に67歳であった。墓所は東京都港区赤坂青山南町1丁目73番地の玉窓寺にある。
(万延元年遣米使節史料集成第三巻より)