福村磯吉宗明(当時42歳)- プロファイル
豊橋市萱(かや)町の秤(はかり)屋福谷喜久蔵の子として生まれた啓吉は、26歳の時、吉田(今の豊橋)を去り、京都・長崎で学んだのち、長崎遊学中に佐賀藩士となった。
佐賀藩は1852年(嘉永5年)、精錬方(せいれんかた)を設け、藩士佐野常民(さのつねたみ・元老院議長や大蔵卿などを歴任し、日本赤十字社を設立した)や啓吉らを登用し、化学技術の研究などに従事させた。啓吉は、長崎海軍伝習所に佐賀藩伝習生として参加し、オランダ海軍士官から航海術を学んだ。
幕府、1860年(万延元年)に日米修好通商条約の批准書交換のため使節を派遣したが、この際啓吉はポーハタン号で太平洋を渡り、アメリカで造船や化学工業の知識を学び、明治維新後は工部省や農商務省などで活躍した。
経歴
文政2年(1819年) | 吉田(豊橋市萱町)に生まれる。 |
弘化元年(1835年) | 故郷吉田を去る。京都・長崎で学び、のち、佐賀藩に召し抱えられ、佐賀藩士となる。 |
安政2年(1855年) | 長崎海軍伝習所に参加する。 |
万延元年(1860年) | 日米修好通商条約の批准書交換。吉田にいる病床の父喜久蔵を見舞う。 |
明治16年(1883年) | 豊橋に引退。 |
明治22年(1889年) | 70歳で没。 |
関係地
豊橋市花園町正琳寺 福谷啓吉墓(JR東海道線豊橋駅下車徒歩20分)
※豊橋市花園町正琳寺(関係資料はない)に自然石を横たえた墓石がある。
その他
遣米使節団の正使は、時の外国奉行新見豊前守正興(しんみぶぜんのかみまさおき)、副使は村垣淡路守範正(むらがきあわじのかみのりまさ)であった。
福谷啓吉はその副使村垣の従者としてアメリカに渡る。(村垣が綴った日記から)
(参考資料「世界と結ぶ豊橋」「東三河産業功労者伝」)