山田馬次郎清樹(当時30歳)- プロファイル
山田馬次郎は、土佐藩(藩主山内容堂)の藩士。(出生及び没年月日は不明)
当時徳川幕府は、万延元年遣米使節団に諸藩からも参加を募った。土佐藩もこれに加わることになり、山田馬次郎は、外国奉行支配組頭成瀬善四郎正典の従者という位置付けで随行した。
当時土佐藩では藩主山内豊信(容堂)のもと、参政吉田東洋が西洋の学問技術の吸収に全力を注いでいた。使節団参加もこのような政策の表われであったろう。馬次郎はかなり長期にわたって江戸に出て英語の勉強をしていたようだ。中浜万次郎の日記によると、安政6年7月29日に細川潤次郎と連れだって、万次郎宅を訪問したのをはじめ、10月までに5回訪ねている。(川澄哲夫編『増補改訂版中浜万次郎集成』715~725ページ、平成13年、小学館)
藩内での彼の評判は「西洋好き」であったらしい。「洋臭者」という言い方もある。土佐藩のほかには佐賀3人、熊本2人、蓮池、杵築、萩、加賀、吉田、館林、仙台、盛岡の諸藩から各1人、合わせて14人が参加している。
馬次郎の墓碑は、高知市筆山の野中兼山田墓所の上方にある。山田去暦の先代を祖として15代続く名門だが、去暦と次の助丞の墓はなく、その次の喜助清次以下、嘉永元年(1848年)、歿の孫右衛門清道まで24基の墓が並んでいる。一番端を馬次郎の墓が占めている。
出典:Webサイト「よさこい高知歴史木漏れ日」(55)万延元年、馬次郎のアメリカ旅行(第1回)から編集 長野和郎