最初の遣米使節派遣から一世紀が経過した1960年に、この使節の使命と功績について、ようやく客観的な評価が下されることになった。米国の外交史家トリート教授は、使節団一行が米国で受けた歓迎は、ハリスがあれ程骨折って日本人に与えようとしたアメリカの好印象を さらに強めた、と述べ、東洋文庫の和田博士も、米国が日本使節を国賓として歓迎し、その経費のすべてを国費を以って支払う親切さを示した事実は、アメリカが島国日本との条約関係のよき端緒を設定する際、いかに熱心に日本の信頼をかち得ようとしていたかを示すものであったとその英文学位請求論文に於いて述べているが、ここでは、日米修好通商条約の締結事情、その内容、その改訂、改正に関する論議や遣米使節派遣の意図についての評価を別として、1860年の最初の遣米日本使節の米国旅行の経験が両国に対して、いかなる歴史的影響を与えたか、という観点からその意義の二、三を説いて、今後の研究の礎石としたい。
1. 遣米使節の功績
米国首都ワシントンに於ける批准書交換のための使節の派遣は、1845年米国政府の初期対日外交の達成点を意味し、それ故にこそ、米国は善意と友好の態度を以ってこの異例の歓迎、歓待に努力し、使節団もまた、国威や国風を考慮しながらも、先進国の現実を直視して自国の将来を熟慮する努力を重ねたのであった。しかし、既に使節の出発以前から老中井伊直弼の一橋派幕吏の粛清、尊王攘夷の志士弾圧に対して強力に推進されていた反動が、使節出発後間もない3月24日(3月3日)の桜田門外に於ける水戸浪士の井伊暗殺事件を生む程日本の政情は不安であった。使節一行もすでに迎船ロアノーク号上において 「日本の事変」を、フィラデルフィアで「我都府の事」をそれぞれ聞き及んだが、半信半疑のまま過ごし、香港でも 「大老職病卒」の由を聞いただけであった。事件後は老中久世大和守廣周、安藤對馬守信睦らを中心とする幕閣は、公武融和を主眼とし、開港開市一部延期の交渉に移るという政策を保っていたから、使節一行の大多数は、帰朝後直ちに特に重い役柄を与えられるとか、積極的な外交内政の衝に当たるということがなかった。神奈川在留の一アメリカ通信員はサンフランシスコのブレティン紙のために 「日本商人の間では一般に、使節が一同に追放されるか、もしくは遠い島々に追放されるか、もしくは遠い島々にて勤務されるものと信ぜられている。そのような島々に行けば、彼らは人民を啓蒙することにより政府を危地にせしめることが出来ないからである」と報じたのは、誤報にあったにせよ、当時の空気をよく言い現わしている。
一方、米国に於いてもワシントンの議事堂の天蓋が未完成であったと同様に、真の国家統一は未完成であることがわかった。米国北部の奴隷制度廃止論者との協調を政策とする民主党員ブキャナン大統領の任期も間もなく過ぎ去ることとなり、使節の去った1860年秋には、党内結束の乱れた民主党を制して、奴隷制廃止を標榜して共和党から立候補したリンカーンが当選し、ついで、1861年には就任式を待たずして、南部6州がアメリカ連邦国を組織して合衆国政府に対抗し、ついに4月には南北戦争が勃発し、4年にわたる内戦が続くのである。内乱と、その後の再建への関心が、米国公使館付書記官ヒュースケンの殺害事件、 輸入関税軽減のための条約改定交渉、さらに長州藩の米船砲撃事件と、尚日米外交上の緊張が続いたが、一層積極的な対日外交の推進者が英国に移行し、日英関係の緊密化が進むのは、ひとつにはこうした米国内部の政情に由来している。
2. 遣米使節の功績
2. 1 海外情勢について見聞をひろめたこと
使節が批准書交換と並んで米国の実地調査の目的をもっていたことは、一行の者も、かの国の政治、社会、自然の諸事象をありのままに見聞し、書留め、帰朝してから著述し又は口述して知友の間に伝達するという自然の成行を助長した。使節や随員のうちには、国際社会の一員として開国後の日本の発展を、自国の尊厳の意識を強める方向で考えるものと、外国文化の有用なものの摂取を強める方向に見出そうとするものとがあったが、随所で見聞する米国と英国の反目とか、隣国清朝の植民地化の形勢とかいう自前の国際関係の中で日本の民族的自立を考える視野が開けてきたことは、風説書や在留外国人を通じて流入する僅かの海外知識によって判断してきた日本人に新しい可能性を与えるものであった。
ピューリタンの倫理とか民主主義といった欧米人の人間観、世界観そのものについての理解を示す記述は少ないにせよ、一行が当初は備忘のために携行した手控に基づいて各自自己の見解を叙した航海日記の類を通読すると、彼等が、各々自己の部署の限定や教養の背景を異にしながら、そうした人間観や世界観が生み出した達成物をいかに積極的に観察してきたかが知られる。オランダ語、漢語を通じて蓄えられた海外知識を自己の観察によって確かめるのに精一杯の者もいたが、一層すぐれた能力の保有者もいた。 通詞の役柄上、船中で米国士官ジョンストン大尉とキリスト教の教養と布教について論議しながら論議内容の同僚への漏洩を心配していたのは 名村五八郎であり、ポーハタン号上で米人牧師ウッドから日課として習得した英語の知識で自己の見聞を広めようとしたのは 長崎留学という口実で加賀藩から賜暇と費用を得て参加した佐野鼎とその同志たちであり、幼少より漢学の素養を生かして、行く先々で中国人との筆談から新知識を獲得しようと試みたのは、大槻磐渓の推薦で参加して帰朝後も開国主義者としての節を全うした 仙台藩士、玉蟲左太夫誼茂であった。こうした努力を通じて国際上の緊張関係や制度・慣習、欧米風の生活様式や人情、風俗について蓄えられた知識は、多かれ少なかれ、帰朝後日本にて活用されるに至るのである。
2. 2 遣欧使節への寄与
1860年に起こった兵庫、新潟の両港と江戸、大阪の両都の開港開市延期問題で条約国との交渉のため、幕府は、遣欧使節を任命し、一行は1862年1月30日(文久2年正月元日)長崎から出帆した。外国奉行竹内下野守保徳を正使とし、神奈川奉行松平石見守康直を副使とし、京極能登守高明を監察とし、総員36人の使節団中、遣米使節一行に参加した人物が数名いることは、彼等の滞米経験が、外交実務上に実地に生かされた顕著な例といえる。即ち徒目付日高圭三郎為善は「正使へ属し第一等之士官」の資格で勘定組頭を勤め、普請役益頭駿次郎尚俊は「正使へ属し第二等之士官」の資格で進物取次上番格御普請役を勤め、益頭の従者加賀藩士佐野鼎は、賄方杵築藩士佐藤恒藏秀長と共に小使兼賄方として参加し、正使の御雇医師蓮池藩医川崎道民は再び「御備医師」として、それぞれ参加して、使節の庶務を弁じ、そして諸国の国情を視察したのである。
2. 3 貨幣制度に対する寄与
安政五か国条約は同種同量の基礎に於いて外国貨幣の国内通用、邦貨の自由輸出を規定しており、しかも幕府当局者が金銀比価の国際基準に暗かったため開港直後の貨幣制度は混乱を極めた。外国人の中には外国銀貨によって購った日本銀貨を以って安価な日本金貨を購入し、これを中国に輸出して巨利を博するものが多く、このため幕府は安政二朱銀を発行して従来の緒貨と併用し、小判金、一分銀を改鋳、発行して古貨を回収し、且つ外国銀貨と同位の新銀一分を発行して現行一分と併用して対応したが、その成果も拳らなかった。
1859年12月17日(安政6年11月24日)、条約改訂のための第四回日米会談に際して、ハリスはこの状態を改善するため、老中に対して日本金貨の価格引上、洋銀の刻印通用の勧告を行い、二日後、日本側の要求により、フィラデルフィア米国造幣局に於ける日本貨幣(保字小判、保字一分金、及び天保一分銀)の分析結果を添えて再びこの件を書面で老中に達した。遣米使節が出発したのは、この勧告により、極印制度が開始され、更に万延鋳貨が日程に上がっていた時の事であった。そして批准書交換終了後の使節のもう一つの用務は、国務省に於いて貨幣交換率の確定についての交渉を続け、且つフィラデルフィア造幣局に於いて、彼我貨幣の比較を実検することに置かれた。造幣局訪問者は自ら算盤を携行して分析工の作業過程を視察し、部分検査に満足せず、邦貨及び米貨の全体分析の難題さえ持ち掛けた。フィラデルフィア滞在中の再分析は、ハリスの提示した数値とこのたびの分析結果をさらに検証するためのものであった。これでハリス勧告の基礎となったデータの正確さと、使節出発当時の通用貨幣の品位とは確認された。使節は、ニューヨーク滞在中に国務長官に覚書を提出して、邦貨の交換比率について申し入れを行った。
2. 4 近代的国防組織への開眼
使節団は、アメリカより帰国直前のニューヨーク滞在中に、しきりに造船所近辺での滞在を希望する申し入れを行った。森田清行は 「亜行船中井彼地一件」の中で、明確に「第一吾邦当今之急務は海軍を開くあれバ、ネヒヤールト(Navy Yard)に滞留いたし候節は、自然器械の工用を熟視し、大いに役立つでしょう」と表明している。外交上の主目的に、国内事情から必要だったのは、1860年には、既に海軍そして造船所であったことは明白である。帰朝後幕閣内部で最も活躍したのは小栗忠順であった。1860年12月(万延元年11月)外国奉行を振出しに勘定奉行、歩兵奉行、陸軍奉行、海軍奉行を歴任して、1868年本意ならざる死を遂げるまでに行った最大の業績は、滞米中実地に見てきた海軍造船所の設備を、フランス政府の援助のもとに横須賀に於いて実現したことであった。横須賀製鉄所は1865年に建設が開始された。小栗の片腕となって活躍した栗本鋤雲もその遺稿に於いて、「仏国公使の紹介を以って、仏国より技師・工士を雇い、英仏より器械を買入れ、多額の資金を投じて、今の横須賀工廠を設けたるは、実に小栗の英断に出でたり」 と論じている。ちなみに使節団員の益頭尚俊は、1865年より横須賀製鉄所建設担当となり、維新政府引き継ぎまで現地に滞在していたのである。
2. 5 科学知識の導入・英学の発達
すでに蘭学を通じて、日本人はヨーロッパに発達した医学、地理学、博物学、兵学などの自然科学の知識、技術の導入の伝統を有していたが、その成果は必ずしも一般民衆のものとならず、むしろ、支配者層によって受継がれてきた。しかも、このたびの遣米使節に於いては、長崎海軍伝習生や、通詞そのた若干の人々を除けば、支配層にありながらそうした伝統を受け継がない人々と その従者たちから成っていただけに、日常生活におけるガス灯、汽車、医療施設その他の科学設備、軍事施設、消費物資の生産に於ける近代工業化の進展ぶりを目のあたりに見ることによって、科学的知識の有用性が、ことさら痛感された。日記の筆者たちが多くの偏見のない率直な感想を書き綴ったのもこの分野のことがらであった。多くの米国刊行書が将来されたのもまた、旅行の途次の見聞を即自的な経験にとどめず、対自的な認識に高めようとする意図のあらわれであった。米国政府その他から贈られ、もしくは米国滞在中に購入した米国刊行の書籍の利用も、科学知識の導入にあずかる所が多かった。使節帰朝後、幕府は収受有用洋書と購買洋書及び機械模型とを書上げさせ、当初は、その前者を書物の内容に応じて、外国局へ合衆国役人附等72部91冊、講武所へ火器製造所の書等7部7冊、軍艦操練所へ算法書等10部10冊、番所調所へ合衆国風土記等63部83冊、種痘館へ薬剤書等18部27冊、合計160部218冊を交付し、また、後者すなわち蒸気機関模型一式を含めて総額629ドル(471両)を支払った。また有用書籍中とくにニューヨーク府貿易方から贈られたと思わしき「亜米利加画合衆国港々規則書」「亜米利加合衆国ニウヨルク港貿易方規則書」及びハワイで購入した「Japan as it was and is・・」は緊急翻訳すべき旨、番所調所に命令が出ている。無給見習立石斧次郎も帰朝後御雇通詞に任ぜられ、麻布善福寺米国公使のハリスに詰め、下谷七軒町に英語塾を設け、加賀藩中学の英語教師として迎えられた後、岩倉具視欧米使節団へ2等書記官として参加している。通詞中濱萬次郎・福沢諭吉らに見られた、英語の書物を通じての新知識導入の努力が、蘭語のそれを通じてのそれから一歩を進める姿が、ここにも見えているといえよう。
3. 遣米使節が米国に及ぼした影響
他のヨーロッパ諸国のいずこへも米国より先に外交使節を送らないという条件で、使節の出発のやむを得ない遅延を承認し、文字通りの朝野を挙げての歓迎につとめたことで、対日通商の指導的役割を維持した米国が、間もなくその指導的地位を英国に譲ったとしても、この太平洋の対岸の国からの遣米使節の派遣の影響は、それと併行して立ち消えてしまったのではない。ここでは、オランダ東インド会社の傭船として、もしくは捕鯨船として日本近海を航行したアメリカ人自身の体験や、日本近海で難破した日本人漁民の世話を通じてのほか、もっぱらシュンベリー書き物やゴロウニンの幽囚記の英語版を通じて日本について知っていたアメリカ人の間に、日本の開国と共に自らの力で日本を理解しようとする意欲が生じ、遣米使節の派遣を通じていわばアメリカ日本学の夜明けが訪れた。
ペリー艦隊の訳官として日本を訪れたサミエル・ウエルズ・ウイリアムズは、モリソン号事件以前に日本漂民を通じて中国で日本語を学び、1840年には日本の古銅図録の英訳を発表しており、ボストンのリチャード・ヒルドレスは、米国東部植民史研究のために訪問したイギリスに保存されていた古文献に基づいて日本史を著述して1855年にこれを刊行して、近刊のペリー遠征記と併読してほしいと述べたが、1860年当時の米国の新聞は競って日本通信や遣米使節の動静を掲載して日本ブームをあおるかたわら、ウイリアムズの日本に関する雑誌論文やペリーの報告書の抜書をしばし転載して、日本認識の新しい段階を準備した。1860年4月サンフランシスコ市主催日本使節歓迎会の席上、市長の指名で立ったデイリーアルタ・カリフォルニア新聞社長マックレリッシュも 「日本帝国は極めて興味ある研究主題を文士、学者、旅行家に開いています」と述べている。ヒルドレスは1861年にその日本史の増補版を出して遣米使節に言及し、詩人ウオルト・ホイットマンも1865年に出した詩集で遣米使節の「ブロードウエイの行列」を発表したほか、しばし日本に言及した作品を残した。これらの事実が、明治維新後の日本に対する各方面からのアメリカ人の助力や研究の素地をなした。
4. 日米友好のしるし
1860年遣米使節団の渡米から始まった日米の交流は、幕末に一時停滞したとは言っても、明治時代には民間人の往来が増加し、政財界の交流も盛んになった。一方では、アメリカ本土で日系移民が多数活動する時代ともなり、移民敗訴運動で日米関係が緊迫したこともあった。その中で、1901年(明治34年)、米友協会の金子堅太郎によって建設されたペリー上陸記念碑(横須賀市久里浜7丁目に現存)は、日米の相互理解を深めるために、両国関係者が多大な努力をした結晶である。さらに、昭和35(1960)年6月、日本の外交使節団が初めて太平洋を渡って以来100年になるのを記念して、日米修好通商百年記念行事運営会によって芝公園の一角に「万延元年遣米使節記念碑」とペリー提督の胸像が立てられた。
出典元:「万延元年遣米使節史料集成」第7巻 第二章 C.遣米使節の役割