三浦東造道賢(当時41歳)- プロファイル
三浦東造道賢(屋号治部之助)は出羽由利郡矢島村木在(現在の秋田県由利本荘市矢島)で、1819年に生まれた。(死去年齢から逆算)
東造道賢は、未だ幼かった嫡子に家督を譲り、嘉永6年当時34~35歳の時に江戸へ上り、以降渡米までの6年間、新見豊前守の縁者である旗本、大竹伊兵衛の屋敷に仮住まいしていた。江戸では、武士としての作法、教養、有職故実、米国の政治、経済、文化ひいては英語等の語学についても学んだ。東造道賢は算術の能力に長け、開明進取の精神に富んでいたこともあり、矢島藩主もしくは江戸藩邸からの推挙を受けて万延元年遣米使節団の一行に志願したものと推察される。東造道賢は、勘定組頭である森田岡太郎清行の従者として万延元年遣米使節団に同行した。
三浦家には東造道賢の「航海日誌」の一部が残されており、病死した水夫の水葬やワシントンで盛大な歓迎を受けた様子等が記されている。三浦家の過去帳によれば、東造道賢は慶応元年(1865年)9月、46歳で死去していることから、渡米時は41歳と推測される。三浦家は矢島藩内でも屈指の旧家であり先祖代々名手主の家柄でもあった。ただ米国から帰国後、井伊大老は既に水戸攘夷派の兇刃に斃れ、郷里に帰って程なく皮肉にも倒幕と大政奉還を迎えた。矢島藩は1万石足らずの小藩であったが、官軍方であったため、藩内にいては三浦家一族に災禍が及ぶことを案じ仙台藩を頼って密かに逃げ、仙台藩内かその途上で憤死したとされている。そのため東造道賢の遺骨は生家には戻ることはなかった。
尚、当会の万延元年遣米使節団員名簿に記載されている遣米使節に参加当時の年齢は34歳とあるが、これは恐らく旗本大竹家に入居した頃の年齢と間違って記載されたものと考えられる。
(高建寺の会報「嶺松」第19号「平成23年2月発行」及び、同寺の佐藤成孝住職のご解説に基づき編集)