谷村左右助勝武(当時29歳)- プロファイル

1860年米国ワシントン滞在中の写真〈川島維知編「写真集・館林」国書刊行会 発行〉
1860年米国ワシントン滞在中の写真
〈川島維知編「写真集・館林」国書刊行会 発行〉

岡谷荘三郎(おかのや しょうざぶろう)
岡谷瑳磨介の三男として、天保3年(1832年)、山形城内で生まれる。諱は勝義。
通称荘三郎。後に、岡谷家の名である平八郎を名乗る。

秋元家の館林移封により、弘化3年(1846年)に岡谷家も館林へ。荘三郎14歳。
荘三郎は兵学を修めたが、父・瑳磨介の影響もあり洋学に方向を変えた。江戸に派遣されて、大鳥圭介(英語)、箕作秋坪(みつくりしゅうへい)(蘭学)に学ぶ。

万延元年(1860年)、日米修好通商条約批准書交換のため遣米使節団の一員として参加。館林藩士初の世界一周を成し遂げた。

万延元年遣米使節団の名簿には、館林藩士・谷村左右助勝武(29歳)の名があるが、谷村とは岡谷荘三郎の変名である。外国奉行支配調役の塚原昌義(36歳)の従僕として参加した。

父であり館林藩江戸家老の瑳磨介は、息子・荘三郎を遣米使節団の一員にするために、外国奉行支配取調役・塚原昌義に依頼したとのこと。
使節団員枠が77人と決まっていたので全国の藩から応募があったようだ。海外の進んだ文明を持ち帰り殖産に役立てるという使命感が多くの藩にあった。

藩主・志朝も喜び、図書の購入費用として若干の金子と太刀一振りを賜った。
荘三郎は「君父の命に背からざらんことを誓い、不幸旅中空しくならんか、異郷に魁して護国の鬼とならん。」と答えた。

慶応元年(1865年)、父の死によって家督を相続した荘三郎は、名を平八郎と改め、江戸館林藩邸に詰めた。慶応4年には、藩論が勤王に統一されると、館林に移り、奉行所に属して物頭役として、折からの打ち壊し暴動の鎮圧に出動した。

廃藩置県後は宇都宮に転じ、明治21年9月12日、同地で卒した。享年55歳。

岡谷家の墓碑(館林の法輪寺)
岡谷家の墓碑(館林の法輪寺)

(本プロファイルは、「館林城の再建をめざす会」の田中茂雄会長が調査研究されWebサイトに掲載された記事に基づき編集させて頂きました。長野和郎)