小池専次郎光義(本名・小出千之助)(当時29歳)- プロファイル
小出千之助(本名)は、天保3年(1832年)、小出利平衛の五男に生まれる。
藩校弘道館に学び、のち蘭学寮に移る。
佐賀藩蘭学寮でオランダ語を修め、語学力を認められた小出千之助は、万延元年(1860年)、幕府が計画した日米修好通商条約批准書交換のための遣米使節団77名に通詞として一行に加わり米軍艦ポーハタン号で海を渡った。
佐賀藩からは総勢7人が参加していた。千之助は「洋行日記」を残している。
オランダ語ではなく英語の必要性を痛感した千之助は帰国後、佐賀藩蘭学寮頭取をしていた大隈重信に英学の必要性を強く説く。
大隈は千之助より6歳若く弘道館での後輩になるから、薫陶を受けたというほうが正しいか。この結果、慶応元年(1865年)、佐賀藩では大隈重信を中心に長崎で新たに英学塾を開くことになった。これが蕃学稽古所(後、致遠館)で講師としてはオランダ系米国人であるフルベッキを教師にむかえた。 蕃学稽古所では、千之助も教導役となり大隈重信をはじめ佐賀藩の後進の指導に当たっている。
慶応3年(1867)、パリで開かれた万国博覧会に日本から徳川幕府,薩摩藩とともに佐賀藩が参加した。 この時幕府からは将軍慶喜の実弟で清水家当主の徳川昭武以下、薩摩藩は家老の岩下方平以下が参加しており、佐賀藩からは佐野常民団長以下、販売主任として佐賀の豪商烏犀円九代の野中元右衛門、副主任は深川長右衛門、 秘書格として精錬方の藤山文一、そして通訳の長崎致遠館の助教授小出千之助の僅か5名が参加している。
帰国後、フルベッキとともに活躍するが、明治元年(1868年)、落馬事故により、37歳の若さで死去した。
小池専次郎光義(本名・小出千之助)(当時29歳)- 永代墓地
- 所在地
小出家の菩提寺 多間院
佐賀市川副町大字南里1996