名村五八郎元度(当時34歳)- プロファイル
万延元年の遣米使節団にも加わり日本の開国に力を尽くした長崎通詞の一人名村五八郎。
この写真は、1982年(昭和57年)6月、ハワイのビショップ博物館で、ブラウン銀板写真新発見のニュースとして話題になったものである。また、日本人が被写体となった最初の写真でもある。
名村五八郎の生家は、世々和蘭通詞であり、彼は文政9年(1826年)に生まれ、その業を継いだが、蘭語のみならず英語をもよくした。長崎の和蘭通詞は、文化年間ごろから英語を修業しはじめたが、嘉永元年(1848年)から翌年にかけて米国人ラナルド・マクドナルドは、約1年間和蘭通詞14名に英語を教えた。名村五八郎はその14名の中には見えないが、彼は14名の修学者中の、森山栄之助・志筑振一郎等の誰からか教授されたか、或いは直接マクドナルドから教えを受けたものと推定される。
嘉永6年(1853年)6月の米国艦隊の浦賀来航の翌月、江戸詰か或いは浦賀詰を命ぜられたと思われる。安政元年(1854年)3月に日米和親条約12箇条が調印されたが、2月10日には名村は堀達之助・森山栄之助を助けて条文の和解に当たった。同年3月17日、名村は神奈川出役中に蝦夷地出向を命ぜられ、25日江戸出発、4月15日松前に至った。彼が蝦夷地に派遣されたのは、幕府の北方警備、露西亜船対策のために外ならなかった。幕府は同年2月勘定吟味役村垣与三郎範正・目付堀部の二人を北海道・樺太に特派したが、名村はその通弁・翻訳の任に当たることになった。村垣は6月12日、堀は翌日樺太に至っているが、名村専ら村垣に随従して翻訳を行った。村垣は7月28日に箱館奉行を命ぜられており、その推薦によって名村五八郎は正式の奉行所使員となった。支配調役下役格で、禄三〇俵三人扶持ちを給された。
安政6年(1860年)に入って外国奉行兼箱館奉行村垣奉行村垣範正が、遣米使節副使に選ばれたため、村垣は名村を通詞として起用した。名村が江戸に向けて出発し、遣米使節一行に随従して帰国する間の事情は「亜行日記」に詳細に綴られている。帰国後は箱館において職務に励むと共に、奉行支配の子弟を募って英会話を教授した。
慶応2年(1866年)8月幕府は、日露間の樺太国境割定談判のため箱館奉行小出大和守秀寛・目付石川駿河守利政に露国派遣を命じた。名村五八郎は、この使節の随員として選ばれた。明治維新後は官職に就かず、東京にて没した。
吉祥寺の名村五八郎の墓碑には明治9年1月18日行年49年11月とある。
名村五八郎の子孫については村山有氏著「修好事始-日米両国関係史(上)(時事新書)に 「アメリカにいた名村蘭学者の子孫」と題して、3頁にわったて述べられている。
名村五八郎の妻は「れん」といい、二人の間に一人娘「志津」が居り、「志津」は田中鶴吉(1867年10月サンフランシスコに移住)と結婚し、サンフランシスコに赴き、大正8年(1919年)に同地で死亡した。「鶴吉」と「志津」との間には、長女静子、次女千代があり、静子はドイツ系オランダ人のクライダーと結婚、千代の長男ホーマーは昭和10年(1934年)、3世最初の医師となったとされている。
(万延元年遣米使節史料収集第2巻より)