立石斧次郎教之(当時17歳)- プロファイル
経歴
天保14年(1843年) | 出生:1843年10月9日(天保14年9月16日) 出生地:江戸小日向(こびなた)馬場東横町(現在の新宿区東五軒町) ※当時の古地図 両親:父は幕府直参の旗本、小花和度正(おばなわなりまさ 当時30歳)で、当時昌平黌教授、後に日光奉行。妻・クル(後妻・当時27歳)の次男。 |
安政4年(1857年) | 叔父(母の兄)立石得十郎に従い伊豆下田にて米領事のハリスにつき英語を学ぶ。 |
安政5年(1858年) | 姉の夫長崎奉行支配頭加藤金四郎を頼って長崎に行って、幕府の長崎伝習所に入学するも英語を解するため助手役を勤める。 |
安政6年(1859年) | 神奈川運上所通弁見習として勤務。 |
安政7年(1860年) | 正月5日、遣米使節に通詞立石得十郎の養子立石斧次郎として同行を出願。(「外交史料集成」第4巻所蔵「和蘭通詞立石得十郎倅斧次郎之儀ニ付申上候書付」)物怖じしない性格で、多くのアメリカ人と交流して熱心に英語を習得。現地ではトミーという愛称で呼ばれて一躍アイドルになり、トミーポルカという舞踏曲までが作られた。帰国後、米国公使館通訳のヒースケンが暗殺されたため、立石斧次郎が米国公使館通訳として雇用される。 |
文久2年(1862年) | この頃公使館勤務の傍ら下谷七軒町に英語塾を開く。三宅秀、益田孝、矢野次郎他が生徒となる。 |
元治元年(1864年) | 4月12日、幕府歩兵差図役方仰付けられる。 |
慶応元年(1865年) | 2月19日、陸軍奉行支配下歩兵差図役頭取勤方仰付けられ横浜の幕府陸軍伝習所にて洋式調練を受ける。5月16日、第二次長州征伐に従軍大阪に向かう。 |
慶応3年(1867年) | 3月28日、大阪城内にて将軍に御目見得、米国公使のヴァン・ヴォールクンバーグ引見の通訳を勤める。 |
明治元年(1868年) | 2月、幕府陸軍歩兵頭並に昇進。同年5月、日光今市郊外にて官軍狙撃兵の銃弾にて負傷。負傷回復後仙台に逃れ、10月、武器商人エドワルド・スネルと上海に密航、帰国途中の渋沢栄一に会い徳川昭武の援助を請い拒否される。 |
明治2年(1869年) | 江戸に戻るが官軍の追及を怖れて長野桂次郎と称す。 |
明治3年(1870年) | 福沢諭吉の推薦により三宅秀の後任として金沢藩英学校に赴任。 |
明治4年(1871年) | 11月9日、岩倉具視使節団員に選ばれ特命全権大使随行、二等書記官申付けられ、外務省七等出仕仰付られる。 |
明治6年(1873年) | 3月11日、帰国。同年3月20日、工部省鉱山寮七等出仕拝命。 |
明治10年(1877年) | 1月11日、工部省鉱山寮廃止により退職。 |
明治11年(1878年) | 一家を挙げて北海道へ移住、缶詰製造に従事。同年8月20日、開拓使御用掛拝命。 |
明治14年(1881年) | 外事課御用係となるが、翌年2月8日、開拓使廃止伴い、農商務省所轄炭砿鉄道部に属し岩内炭山主任となる。 |
明治16年(1883年) | 9月、岩内炭山廃業のため帰農。 |
明治17年(1884年) | 春廃農して東京に帰る。 |
明治20年(1887年) | 2月6日、ハワイ総領事安藤太郎と同行、妻子ともハワイに渡り移民監督官となり自らも営農。 |
明治22年(1889年) | 2月、帰国。 |
明治24年(1891年) | 大阪控訴院通訳官となり単身赴任。 |
明治42年(1909年) | 11月、退職。 |
大正6年(1917年) | 1月13日、伊豆の戸田澤見にて死去、死の直前洗礼を受ける。1月23日、芝公園西口聖アンデレ教会にて葬儀、青山墓地に葬られる。 |
その他
幼少時代から名前が6回変わっている。
- 小花和為八(おばなわ ためはち)…出生時
- 横尾為八(よこお ためはち)…幼年期、病弱で里子に出された
- 米田為八(こめだ ためはち)…十歳のころ里子先から母の実家の養子に入る
- 立石斧次郎(たていし おのじろう)…17歳で渡米し「トミー」と呼ばれたとき
- 米田桂次郎(こめだ けいじろう)…帰国後は、この名前で徳川幕府に使えていた
- 長野桂次郎(ながの けいじろう)…岩倉使節団に通訳として随行したときの名前で、晩年はずっとこの名前
立石斧次郎教之(当時17歳)- 子孫の紹介
- 万延元年遣米使節子孫の会会員
櫻井 成孝(さくらい なりたか) 立石斧次郎の曾孫(1949年生まれ)
立石斧次郎を紹介するホームページ「HOWDY TOMMY」を運営。
立石斧次郎教之(当時17歳)- 永代墓地
- 所在地
都立青山霊園
東京都港区南青山 2-32-2
東京メトロ銀座線「外苑前駅」徒歩約10分。
一種口6号6側