一 『奉使日録』原本の確信
さて、「奉使日録」の翻訳も一段落し、印刷の校正チェックに入った昨年(平成27年11月頃)、気に掛かっていた(2点)を探ってみることにした。それは・・・
1. 今回翻訳を依頼された「奉使日録」が海軍軍医学校の蔵書の推移の中で発見されたことから、原本であると確信していたが、復刻版が何冊か出ているので、専門家に鑑定をしてもらったか?との問いに。「鑑定をしてもらっていない、復刻版があるとは知らなかった」と答えたことである。ましてや、復刻本というから、手書きではなく、活字本だと考えていた。
しかし、その「本」の写真がインターネットで送られて来たときは、「えっ!(私が鈴木紘一氏から)見せられた本と同じ自筆本ではないかと」わが目を疑ったのであった。しかし、本物であるとの確信 から、自分で調べることとした。その結果、国立国会図書館が保存している村山伯元の(著者名 は、『村山拙軒』と記されている)「奉使日録」は二冊とも複製、復刻版であると注記されています。同図書館の請求記号w198-3には、『注記・複製』とあり、請求記号w338-1には『注記・海軍軍医学校蔵書著者自筆本の復刻版』とあります。
そして、同書に挟み込まれた手書きの『本日記の由来』にある通り『・・之を私するに忍び難きものあり即ち之を写真銅板に付し同好の士に頒つ所以なり』とあります。右の各二冊の書に押されている角印『海軍軍醫學校圖書印』は朱(又は赤)ではなく、いずれも、墨(黒)色である。(当時はカラー写真ができないか、普及していなかったのであろう。)
現在国会図書館が所蔵している「奉使日録」の請求記号w198-3にある印は、丸印で、「書・國立國會・57・1・29・圖書館蔵書」と朱(赤)印されており、w338-1には、角印で、「國立國會圖書館蔵書」とこれも朱(赤)されている。(注:その印の押されたページの下方に・47・12・4と青で印字されている。)つまり両書とも、朱印は国会図書館が所蔵した時点で押印されたものであろう。
この度出版された翻刻、翻訳本の元となった「奉使日録」は同書の82ページに掲載されている、鈴木紘一氏の「旧海軍軍医学校蔵書始末記」にある通り、海軍軍医学校の蔵書の流れの中で、見いだされ、保管保存されたもので、掲載されている、蔵書印(p74)や巻末にある(p86・87)写真や、12ぺージの訳者の注でも推察できる通り、著者手書きの原本であることは、専門家の目を経ないでもお解りと思われる。
ただ、此の原本には一点問題がある。国会図書館が所蔵する各二冊の最後のページに『里程総計』と書かれたページとその続きページ(見開き)が付いていないのである。(欠けている)理由として考えられるのは、復刻版を作る為、写真を撮った時に紛失してしまったのではなかろうかということである。(機会があれば、もう一度原本を検分しそのあたりを探ってみたい。)
2. 気に掛かっていることのもう一点は、著者村山伯元(拙軒)氏の子孫が「蔓延元年遣米使節子孫の会」に入っていないばかりか、子孫の会でもその行方を知らないとのことであった。ぜひとも探し当てお会いしたいと。伯元は明治二十六年六十二歳で亡くなっている。其後を考えると東京での大きな変化は、関東大震災、第二次世界大戦、そしてその後の東京の都市、市街の劇的な変化等があり、無理かもしれないと一抹の不安を抱きながら「せめてお墓でも」と探索することにした。
第一の手掛かりは、「奉使日録」を『・・・偶々入手した』という、京橋区築地の光源寺(当時の住職・佐々木龍調氏)である。インターネットで、「光源寺」を探して見ることとした。海軍軍医学校の近くの光源寺と言えば何とかなるであろうと。
運の良いことに、三回目にかけた電話で『光の文字を使うコウゲンジ(光源寺)は東京に二軒あるが、私共も「光源寺」です。関東大震災で、調布に移転しました』とのことであった。突然の電話で説明が長くなりそうなので、恐縮しながら、佐々木龍調氏のことを尋ねてみた。『龍調は私の祖父です。私は孫で佐々木瑞恵と申します。祖父はかなりの文人肌のようで、露國派遣記者の徳富猪一郎(蘇峰)とも親しく、また、和歌などを通じて九条家の人とも知り合いだったようです。』との答えに、「ビンゴ!」と心の中で叫び、万延元年の遣米使節、村山伯元そして「奉使日録」の事などを話し、村山伯元のお墓、村山氏の菩提寺はそちらでは?と尋ねたが、檀家ではなく、お墓もないとのこと。奉使日録のことは、聞いたような気がします。今年は(平成二十七年)光源寺(浄土真宗・本願寺派)創建四百年に当たります。その様な年に祖父のお話が聞けて、大変うれしく思います。』とのことであった。印刷が上がり次第本をお送りさせて頂ただきますと約束しお礼を申し上げた。
後日、住職の佐々木瑞恵様からお手紙をいただき、『祖父は山本五十六様と大変仲が良かったと聞いています。光源寺にもちょこちょこ遊びにいらして幼い父を膝に乗せて可愛かって下さったそうです。佐々木信綱様とも親交があり祖父の漢詩が残っておりますので、歌のお仲間かと思っています。この世で会うことのなかった祖父のことを色々想像する機会をいただき有難うございました。村垣先生の謝辞の中に大正十三年光源寺が寄贈と書かれております。きっと大震災の時にも肌身離さず持って逃げたことでしょう。大切な奉使日録を個人の力では護り切れないと判断したのだと思います。勝手な想像ばかりで失礼いたしました。かしこ』と丁寧な毛筆のお手紙を頂戴いたしました。・・・・・小生この手紙に感激!
さて、では村山伯元のお墓は、菩提寺は何処か?伯元は本郷弓町に養父自白と一緒に住んでいたとの事から、本郷のある、文京区の区役所に電話をして尋ねてみた。応対者は大変親切で、色々知べてくれたがわからず、最後に、最近品川歴史館で『品川から世界へ展』が開かれたとの事。そこで何か手掛かりがあるかもしれませんと教えてくれた。そこで、手掛かりをと、中央区役所―中央郷土天文館(タイムドームと言うらしい)に電話で尋ねた。対応に出た学芸員はこれまた熱心で、『ひょっとしたら、幕府の医師ですから寛政重修諸家譜に菩提寺か埋葬地が出ているかもしれません』とヒントをくれた。
二 『村山伯元淳の始祖と、その裔孫』
寛政重修諸家譜(昭和四十一年四月三十日発行・続群書類従完成会)によると、村山氏の祖先は、『もと平氏にして猿渡を稱し、藤四郎實信がとき藤原氏に改む。其後胤傳左衛門信庸外家の號を冒して村山を稱す。これ元徳が父なり。』とあり、
元徳―(もとのり) | 自伯・外科の醫を業とし、長崎に住す。元禄四年めされて常憲院殿(綱吉)に仕へ廩米二百俵を給い番醫となる。寛永三年死す。年六十歳・牛込濟松寺に葬る。 |
元休―(もとよし) | 自伯・十六にして常憲院に拝謁、享保二年番醫。葬地・牛込濟松寺。 |
元周―(もとちか) | 自伯・元徳が四男・十六にて有徳院(吉宗)に拝謁。小石川療養所・ 甲府勤番の醫となり甲府に住す。安永二(一七七三)死去、甲府龍花院に葬る。 |
徳榮―(のりよし) | 自伯・明和四年祖父が家を継ぐ、二十一歳。廩米二百俵。天明六年 |
徳之―(のりゆき) | 伯元・実は湯川直次郎猶永が六男。(筆者注:徳榮の婿養子となる。) 家紋 亀甲の内ニ引 丸に三鱗 丸に三蔦 とある。 |
そして、更に『村山 村山傳左衛門信庸が男理左エ門元清、大久保加賀守家臣野村太右衛門某が養子となり、彼家につかふ、淳庵は元清が二男にして村山家號をもちふ』とあり、淳庵―(あついへ)外科の醫をもって櫻田の館につかへ寶永元年文昭院殿(家宣)に従い御家人に列し、月俸三十口を賜い奥醫となり、のち本城に候す。享保元年有章院殿(家継)薨去により、寄合に列す。五年死去、五十一歳。牛込の濟松寺に葬る。のち代々葬地とす。
邦秋―(くにとき) | 大久保加賀守家臣野村小兵衛政直が男。淳庵の養子となる。・・・享保十六年番醫。寶暦八死去・五十四歳。 |
元珍―(もとよし) | 寶暦八年番醫、明和六年寄合。七年死去、四十六歳。 |
元章―(もとあきら) | 一橋の家臣村山藤九郎有成が男。元珍の養子。十八歳にて死去。 |
信古―(のぶひさ) | 小川玄達子雍が三男元章の養子。明和七番醫・寛政六死去三九歳。 |
時保―(ときやす) | 峰岸春庵瑞房が五男、信古の婿養子。寛政九、小石川療養所に務。家紋 蕨手に二引とある 。 |
以上が寛政重修諸家譜にある、村山自伯関連の情報である。
さて、濟松寺が村山家代々の葬地と判ったからには、例によって、インターネットで「濟松寺」を探すと、直ぐに数件もの情報がでてきた。寺号は、陰凉山濟松寺、正保三年(一六四六)将軍家光の命により、家光に仕えた祖心尼の為に創建された。臨済宗の濟と松平氏の松からなるとの由来で、現在は新宿区榎木町に広大な敷地を有している。詳しくは、濟松寺の公式ホームページを見ていただきたい。電話にて、住職(現在はご子息が住職か)の岩田文雄氏と話し、村山自伯の個々のお墓が数基有ることを確認。そして、現在も村山氏のご子孫が檀家であり、村山家の墓石も建立されたとのことであった。プライバシーのこともあるので、事情を説明し、相手の了解を得られれば、氏名と連絡先を教えてほしいとお願いした。翌日、待っていた電話。現当主は、村山久(ひさし)氏・杉並にお住まいとのこと。
すぐに、杉並の村山氏に電話。ここでも、蔓延元年遣米使節の件(ポーハタン号)、「奉使日録」の事などを説明した。久氏は『私は現在九十歳(大正十五年生れ)ですが、祖先の事にはあまり興味がなかったので、詳しく説明できませんが、私の妹の子(甥・解良(けら)氏)が熱心に調べていたようなので、資料を送ってもらい、そちらに送りますよ』との返事であった。
数日して、資料が届き拝見した。そして後日、訳本を謹呈し、お二人にお会いし色々と話をお伺いした。その資料と私が調べた事柄とをあわせて不明だった、六代目自伯とその養子、七代目伯元とその子供達、そして現当主久氏との関係が明らかになってきた。
さて、「奉使日録」の著者の親・(義父)である、村山自伯(六代目)は、「西洋醫術傳来史」・古賀十二郎著・日新書院・昭和十七年発行によれば、
二代元休 (元徳の長男享保二丁酉年(一七一七年)十二月三日逝く。享年二十六歳。)
三代元周 (元徳四男。安永癸巳年(一七七三年)六月八日、甲府にて逝く。)
四代徳榮 (文政十丁亥年(一八二七年)十月七日逝く。)
五代徳之 (嘉永元戊申年(一八四八年)五月十日逝く。)そして、
六代自伯 (慶應三年丁卯(一八六七年)十二月十二日逝く。)世々幕府の醫官であった。
とある。
村山氏の調べでは、六代自伯には五人の子女があった。男子はいずれも父親の自伯より先に 死去し(某ー早世・天保二年・一八三一年)・徳顕(伯温)―安政二年・一八五五年・某―天保九年・一八三八年死去) 女子が二人いて、その一人に徳淳(伯元・拙軒)が婿養子に入った。徳淳は同じ幕府の医官で、「海防彝議」を編纂した、塩田順庵の第二子である。伯元は七代目となる。
二人の間には子供が一人いたが(男子)早世し、また妻も文久元年(一八六一年)に去する。其の後、徳淳は後妻・志希を娶る。志希との間に二人の男子と一女があった。女子は諌山氏に嫁いだが、二人の男子は(成一と駿三)は父徳淳の死後(明治二十六年・一八九三年)、明治明治四十一年・一九〇八年七月一七日同じ日に亡くなる。(事故か何かであろうとの事)村山拙軒(伯元)の後妻志希子とその二人の子のお墓は上 野谷中の長久院にあったが、村山久氏が村山家累代の墓をすべて、新宿榎木町の濟松寺 に移し、自らも村山家の墓石を建立した。
六代目自伯のもう一人の娘・きう(安政四年・一八五七年~大正二年・一九一三年)が、 真木氏(幹之助・嘉永六年・一八五三年)に嫁ぎ三人の男子を儲ける。その第二子・実 (明治二八年~昭和四十五年・一八九五年~一九七〇年))氏が村山家の養子となる。此の方がお会いした現当主の村山久(大正十四年(一九二五年)十一月生)氏の父君 である。久氏には、奥様、ご子息彰一氏そしてそのお子様(久氏の孫)も御健在であるとの事。 村山家の弥栄をお祈り申し上げます。
以上
右をもって、その後の『奉使日録』と『村山伯元の裔孫』のまとめとする。
平成28年1月19日・2月7日(一部訂正)